ふと、たまにはつらつらと自分の心内を書いてみようと思ったので、
上海あたりを走ってるらしいどこかのあの人の真似っこしてコラムな回にすることにした。
ちなみに私は今上海あたりを走ってるどこかの誰かさんのファンだけど、崇拝という感じじゃない。
なんというか、似た境遇の同世代の同士といった感じが強いかもしれない。
年も1個違い(1個下)だし、同じように若さと勢いと熟考の末、現状を飛び出して、もがいて、
そして運命というか、ある逆らえない流れの存在とか、あきらめとか、結論を見つけていったり。
なんだかそういう生々しい本音ってのは、親近感がわくし、私は結構好きなのである。
もちろん日常(日記)があってこそ本音が生きるんですけどね。
今回は仕事がうまくいかなくなって自転車に乗れなくなった話。
自転車乗りはオタクが多い。
最近この事実に気づいて何でだろうかと考えていたら、ふと自分が自転車を乗り始めたきっかけを思い出した。
あー現実から逃げたい、なにかワクワクしないとやってらんない。
…まあそんな風に誰しも思うときがあるわけで、そういう時期が強くなって実行に移るのが大体30歳前なんだってのは自分が実際なってみてわかった。そんな浪漫とスリルと乗り越えられる程度の困難を手軽に、しかも少ない体力投資で得られるツールであり、かつオタク心をくすぐる美しいメカ。それがロードレーサーだった。
そういうわけで自分は自転車に乗り始めて、いろんなところに行って、いろんな人と会って、そうして怒涛の変化に飲まれて自転車と共に東京に戻ってきたのだった。
そのあと、私はどうなったのだろうか?
29歳、札幌。
札幌は私の社会人1年目のすみかだった。結局1年も経たずに東京に転職することになるのだけど。東京に来る前は、いろんなことがすごいスピードで過ぎ去って、その変化は客観的にはマイナスなものばかりでついていくのに精いっぱいだった。でもその時はそれがワクワクした困難に感じられ、自分はなんでもできる感じがした。そう、初めてロードバイクに乗ったときのように。
あの時はいろんなものがとてもよく見えた気がした。私は「みえる」という風に表現しているのだけど、つまるところ冷静さと直感をいいバランスで持ってる状態で、物事の先を読んで動ける状態のことだろうと思う。はたから見てると調子に乗ってるようにも見えるんだが、ともかくノッてる状態のことである。その感覚は魔力的な感じももっていて、北海道だから得られてるんだろうと思ってた。東京に行ったら消えてしまうんだろうと、実は心の奥でぼんやり思ってた。
30歳、東京。
転職話は驚くほどとんとん拍子に進み、1年経たずして札幌を去り、東京の山奥に移り住んだ。
転職のとき、給与、休日、立地、仕事内容…まあいろんな条件を吟味して今の職に決めたのだけど、立地に関しては本当にここにしてよかったと思っている。北海道とはまた違うけど、東京ではないような素敵な自然がたくさんあって、住んでる町がとても素敵だった。ツーリングもしやすいし、奥多摩まで1時間くらいで行ける。
でも、札幌で100km走っていた私は東京では40kmくらいしか走らなくなっていた。
理由は分からない。魔法は切れた。
それは無意識だけど結構なストレスになっていた。
それなら走ればいいじゃないか。
いや、走れない。走れないんだよ。どうして気持ちが追いつかない。なぜ?
魔法が消えたキキの気持ちがよく分かる。
ものすごく小さな、気づかないくらいの変化というのは原因が分からないのが厄介なのだ。
走れなくなった原因、それは今でもハッキリは分からない。
物理的に距離だけ走れば解決する問題ではない。たぶん。仕事も含めいろんなことが絡み合ってる。まあ仕事が大きいかな。誰でもできそうな仕事ほど、自分を試されてる気がしてならない。
少し仕事の話をしよう。
仕事っていうのは自分の能力をまざまざと突きつけられ金銭や肩書で評価されていくシステムだけど、それが重くプレッシャーになるんだなというのが分かり始めた。さらにその評価はあくまで内々のもので、一体自分は世界のどこにいるのだろう、通用するレベルになれるのだろうか、そんなことを思いはじめたらどうしようもなくなってしまった。まだ若いから転職できるのよ、と言われたその言葉の意味が分かり始めた自分は少しずつ次の世代に移動しているんだってことを感じた。転職したいとは今のところ思っていないけど、そうやって人は環境に馴化していくんだと思うと少し怖い気がした。いつまでも若い気持ちや新鮮さを維持するのは相当難しいことらしい。
馴化。
馴化というのは徐々に馴れることである。良くも悪くも宗教に近い。
ここ1ヶ月くらい、自分は仕事がとても苦痛だった。表面的には何が変わったのか分からなかったけど、ある時気づいたら自分の心が変わっていることに気づた。なにも「みえ」なくなっていた。馴化がはじまっていたのだ。ものすごくもがいた。それは道を歩いていて、いつの間にか沼にはまりかけているようなそんな感じだった。会社は何もしていない。教育も洗脳もしていないし、むしろ変わろうとしているところだ。なのに私は何か目に見えないものに蝕まれている。一体お前は誰なんだ。
恐怖の克服というのは起点を思い出すといい、とどこかで聞いたことがある。
恐怖や困難みたいな壁にぶち当たると、冷静なときには迂回したり乗り越えたりできるけど、冷静さがないときは壁に当たったことすら気づかないまま足踏みだけしていることがある。なぜ前に進まないのか、こんなに足を動かしているのになぜだろう。ミラーハウスの壁にぶつかったままひたすら前に進もうとしてる人みたいな。そういう時は、どうにかして記憶をたどって始まりの瞬間を見つけると解決することが多い気がする。そういえばあの時でこに何か当たった気がしたな、とか。そうすればそういえば自分は壁にぶつかったんだった、ということを思い出せる。バカみたいな話だけど、実際渦中に飲まれると、これがものすごく難しい。
自分が馴化されていく苦痛が1ヶ月くらい続いた。
自転車でも走りに行った。けど馴化は止まらなかった。
仕事も思うように進まない、自転車で走っても前みたいな心が震えるような感動がない。
なぜ?なぜだか分らなかった。
ある時ふと糸口を見つけたのだ。
やけくそになってなんでもいいからとにかく自分の気持ちをぶつけてみた。あらゆることに。
そしたらその中でやっと最初の起点が見えた気がした。それも霞がかかったくらいにぼんやりと。
それが現在。
起点が本当に起点かどうかは分からない。馴化が無くなったわけじゃないから、また心に傷ができたらそこから蝕まれてしまうかもしれない。でもひさしぶりに「みえる」ようになった。
これで自転車にもまた乗れるようになるかもしれないと思うとうれしい。
ああ、山に向かってぶっ飛ばしたい。
長野あたりの山を越えて、いっそのこと日本海まで行ってしまいたい。
あの日、チャリ屋に駆け込んで「稚内から札幌まで下れる自転車をくれ!」といった熱い浪漫をまた追いかけたい。
10月7日、ツールド千葉に出ます。